昭和57年09月10日 朝の御理解
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とが三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な人が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」
神の機感にかのうた信心とはと、信心の焦点をはっきりして、そして神のおかげが分り神の大恩が段々分って行く事を、楽しみに喜びとして、信心を進めて行かねばならんと言う御理解。まぁほんとにあの大切に分らせて頂かなければならんことは、先ず神のおかげをおかげと知ること、そこから神の大恩を大恩と感じれれる信心、そこに初めて神の機感にかのうた信心もいよいよ出来る事になるのです。
昨日教徒便りを読んで貰っておりましたら、ある教会の奥さんが書いておられる記事が出ておりました。まぁだ教会もまぁ不自由な時代子供さんが修学旅行にいかねばならん、もうやっとの思いで旅費やらまぁ小遣いやらを用意して、修学旅行にやったというのです。で修学旅行から無事帰ってまいりましてから、お母さん、お母さんが一番喜ぶお土産を買ってきたよ、と言うてある紙包を差し出した。お母さんは思われたこの難儀逼迫中にお土産なんか買うてこんでもよかとこへでと思うた。
開けてみたらなんと母親が持たしてやっておった小遣いを一銭も使わずにそっくりそのままお母さんに渡したと言う。なるほどお母さんが一番喜ぶお土産であったと言う訳ですね。神の機感にかのうということは、本当に神様に喜んで頂けれる氏子にお取立てを頂く事だと思いますよね。そりゃその狙いを思うたわけ。そしてまた次にやっぱ同じように、その教会長夫人ですどこの人か知らんけど書いておられます。
皆んながおかげを頂かにゃならんときにゃ一生懸命に参って来る、おかげを頂くと教会にほんなら御用やらあったり致しますと、昨日はもう大変忙しくてから御用も出来ずにという、惜しい事だと、おかげを頂くと言う事は一生懸命参って来ておかげを頂いたけれども、おかげを頂いて神様に喜んで頂く、なら教会御用でも出来る様に、そこからお徳が受けられるのに惜しい事だとその「研修は終わっとらられます。
私しはその事を昨日聞かしてもらってね。確かにそうだなと思います。ですからおかげを頂かなければならん、一生懸命お参りをする、その一生懸命お参りをしておる時にですね。神のおかげが分る様な神の大恩が分る様な、信心を身に着けておかなければ、これからがおかげこれからが御徳と言う時にです。御徳を受ける事の出来んなりで終わってしまわねばならん信者、信奉者がどれくらい多いか分らないということであります。一生懸命参るいまの今日の御理解の様に、神のおかげを知らんから互い違いになる。
神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き身代も出来るとあるんですから。一番願わして頂くとこはそこなんです。頂きたいところは。今の親子の修学旅行のその話じゃないですけれども、子供が親の心をよう分って親がどうしたら一番喜ぶかと言う事が分って、小遣いは一銭も使わずにお母さんが一番喜ぶお土産を分って来たというて、差し出された時の母親の喜びというものは、まさしく子が親の心が分っての行動であり、信心であったと思うのです。信心が分ると言う事は神様の心が分ると言う事である。
その神様の御心に添い奉ろうとする信心が、本気で成される時に、だんだんおかげをおかげと分って来る。あれもおかげこれもおかげと、おかげの世界がいよいよ広くなってくる。そこに互い違いになる様な事のない、いよいよおかげを頂いて、神の大恩を知れば無事達者で子孫も続きとある。そういう言うならば、無事達者で子孫も続きとそう言う様なおかげを頂くため。本気で信心を頂く、おかげを頂くまで一生懸命お参りをする、拝むといってもです。
そこにいわゆる神の心を心とするの奥儀というか、それがわからないとそれこそ、親がやっとかっと持たせてやった、まぁ小遣いからね、まぁいうならにゅうばつの一つも買ってくると致しましょうか。そして子後もは親が喜ぶと思うておる、そういう浅はかなものではなくて本当に親が喜ぶものと言う事を知っておるから。お母さんが一番喜ぶお土産をかってきたよいうて、まぁ渡したと言うね。私共が神様が一番喜んで下さる、それには神の心が分らにゃいかん。神の心が分ると言う事が信心が分ると言う事である。
ですからね、一生懸命の信心修行の中にその修行の喜びとか楽しさと、朝参りを指して頂くのに有り難ぁい目覚ましのおかげを頂く、今日はどんな御理解頂くじゃろかと、おどろおどろしてご参拝が出来る様な、折角ならね、そういう信心じゃなからんと信心が身に着かんのです。おかげ頂かんからまいりょると言う事になります。きついともうやめますおかげ頂くともう信心が緩みます。信心のいわゆる本当の楽しみとか喜びがとかというものが身に着いてくるような信心、いよいよ神様の心の奥が解る様な信心。
そういう信心を頂いて始めて、神のおかげをおかげと分り、大恩を大恩といよいよこれは、まぁ限りないものですけれども、感じられる様になる。いわゆる子孫繁盛家繁盛、もしかしたら子孫も続きと言った様なそういうおかげの頂けれる信心を頂いて教祖金光大神の御教えを始めて生き生きとして来る訳なんです。信心が分ると言う事は、親の心神の心が分ると言う事、しかもその神の心が分ったらそれを神の心に添い奉ろうとする。精進こそが本当の信心修行というのじゃないでしょうかね。
どうぞ。